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第69回法隆寺夏季大学 その13(第7講「玉虫厨子から考える」)

 今日は今日とて早朝に業務連絡の電話。その後出かける予定もあったので、結局、今日も眠いです。┐(´ー`)┌
 家のことでいろいろやることがあるのも、しんどいです…。ちょっとは進んでるけど。

 さて、今日は、また夏季大学の講義に戻りたいと思います。第7講です。奈良国立博物館名誉会員で大阪市博物館機構理事の梶谷亮治先生が講師。
 今、テキストを見返してみたら、あまりメモを取ってなかったです…。玉虫厨子と法隆寺の金堂の類似性についてのご説明の後、スライドで玉虫厨子に描かれている絵を示しながら絵を読み解いてくださったんですけども…。
 記憶に残っているところだけを書いていきます。
 玉虫厨子と法隆寺の金堂の類似性については、私、以前に何度か読んだことがありますが、その理由を「玉虫厨子を参考にして金堂を造ったから」という説と、「金堂に似せて玉虫厨子を造ったから」という説の両方を読んだことがあります。
 私は専門家ではないので判断する材料を持ってませんけど、感覚的にはどちらかというと後者の方を支持しております。大切な仏様を安置する建物を、工芸品を参考に建設するという思考に賛同しかねたからです。重量などを考えると、小さい見本を等倍すれば大きなものが建つという単純な理屈では建物はできないと思うんです。そんなふうに造ろうとも思わないと思うんです。
 でも、先生はどちらかというと前者のお考えなのです。
 先生は「玉虫厨子は一つの設計図である可能性がある」と言われたのですが、どうも聞いているうちに、「純粋に建築的な意味での設計図ではなくて、思想的な意味での設計図なのかな」と何となく思いました。
 今でもそうですけど、建築物は立体なので、絵で完成イメージを描くだけでなく、模型を作って施主に見せたりしますね。そういう意味での見本かもしれません。
 ……にしては、もちろん金堂と玉虫厨子は形が違いすぎるし、あまりに絵にリキが入っているので、もちろんその完成を目的に造られていると思いますし、個人的には見本として金堂の意匠を取り入れて大切な厨子を造ったということだと思います。
 それはさておき。
 玉虫厨子の台座などに描かれている絵は、単なる仏教説話を思いつくまま描いたということではなく、どうも、玉虫厨子全体で、どなたかが思い描く仏教世界を表していたんじゃないか、ということのようです。
 それを、一枚一枚の絵の詳細を説明しながらお話をされたんですけども、正面の舎利供養図と裏面の須弥山図の説明には、全然ついていけませんでした…。そのときは理解したつもりでしたけど、頭に残ってないということはそういうことですよね。
 でも左右の捨身飼虎図と施身聞偈図の読み解きはわかりました。第3講の竹の話のときにも出てきた図ですし。そもそも割とわかりやすい話ですよね。
 ただ、捨身飼虎の解説では、「捨身」と「捨命」の違いを興味深く聞きました。聖徳太子が書かれたという『勝鬘経義疏』の中に、「古い解釈では『捨身』は奴隷になることとあるが、今解釈すると『捨身』と『捨命』はどちらも死ぬこと」とあるそうです。ただ、決意の内容が異なるのだそうです。「捨身」は(例えば虎を助けるために)身体を捨てることであり、「捨命」は(例えば、君主の危難の際に)命を捨てることにあるそうです。
 話を聞いているときには納得したつもりでしたけど、でも、やっぱりわからんな…。
 施身聞偈図では、画面の中にた孔雀の絵が描かれているという説明が新鮮でした。言われると、確かにそういう鳥がいるんです。鳥の存在自体を初めて知りましたが、孔雀と言われなければ、多分、私は鳳凰だと思ったと思います。
 孔雀は国を守る鳥なのだそうです。実際、いろんなところに描かれているそうです。ほー。
 裏面の須弥山図の中の鳥も孔雀だそうですけど、そうなのかな(それは私、懐疑的です)。
 あとね、ヒマラヤの山中で前世の釈迦は鹿皮を着ていたそうです。単に寒いから毛皮を着ていたのではなく、鹿皮を着ているというのは仙人を表す比喩のようです。ほー。
 そういうような当時の思考を知ってると、一枚の絵を見るだけでいろんなことを理解できるんだなぁと思いました。
 この講で考えたのは、主にこれくらいでしょうか。
 そうして、以前にも書きましたが、先生がスライドを私達に見せながら「おや、ここにも竹が描かれている」と思わずつぶやかれたのが意外でした。「なぜ描かれている?」と思われたんだと思います。
 でも、これは先日も書いたとおり、思想につながるようなモチーフではないと思います。絵を描くときって、そんなに理性的に緻密に計算して描かないもの(少なくとも私は)。描きたい大枠はもちろん大事にしますけど、絵的な美醜を狙って、何かを挿絵風に入れるというのは、画家の裁量で許される範囲じゃないかなぁ。
 この講義で私がちょっと考えたのはこれくらい。後は孔雀王の話も気になったんですけど、これは中身を忘れてしまっています。残念。
 写真は、法隆寺の金堂。
法隆寺(西院伽藍)19
 改めて写真を見ると、確かに玉虫厨子に似てますね。
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奈良こんふぇいと

 先日の台風ですが、この辺は「まぁ、大丈夫だろう」と思っていたら、夜中に動員要請のメールが入ってまいりました。2:47ですよ。勘弁してくれよ…と思いました。
 自分が係長のときには防災・危機管理も担当していたので、トリガーとなる情報が気象庁から発出されたら、自分が出かける準備をしてたんですけど、最近は役割が変わって自分は出動しないことが多い(当番が決めてあるので、その人に連絡するだけ)ので、このときは、「うわぁ、この時間にAさんに出勤してくれと電話しなあかんのか…」と思って、嫌だったのよ。……したんですけど。
 本当はそういう電話連絡するのも私の役目ではないのですが、担当の係員は「多分、メールに気づいてないだろうな(寝とるに決まっとる)」と思ったので、私がやりました。
 結果としては、やっぱり寝てました。
 翌日、周囲から「よく起きれますね」と言われましたけど、まぁ、自分がやらなあかんと思ってるから以外の理由はないですね。だって、危機管理を担当していた頃は、反応すべきメールがもっといろいろあって、それらにちゃんと反応してましたもの。でも今は、今の自分に必要なメールにしか反応しないので、やっぱ意識の問題なのね、と思います。
 ま、でも一昨日は、メールが届くちょっと前に、なぜか目が覚めてトイレに行ったのよ。再び寝ようとしたらメールが届いたの。
 偶然だなぁと思っていましたが、昨日、同じようなことがありました。
 一昨日は寝不足だったので、ちょっとだけ横になるつもりが寝ちゃってました。夜中に何となく目が覚めた後、歯磨きから戻ってきて寝ようとしたら、別の危機管理業務のメールが来ました。2:48でした。どーゆーこと?
 一瞬、自分の何か(不思議な力)がメールの来るのを察して目覚めたのかと思いましたけど(^^;)、ほぼ同じ時間のことなので、実は私、毎日この時間に目が覚めてるんでしょうか(謎)。
 という、くだらないことを考えつつ、今日も眠いです…。今朝も早い時間から業務連絡してたんで…。

 ということなので、今日は軽いネタを。
 奈良に行ったときに買ったお土産。
20190729_奈良こんふぇいと01
 奈良こんふぇいと。一箱540円。製造者は、(株)砂糖傳増尾商店。
 中身はいろんな味の金平糖。
20190729_奈良こんふぇいと06 20190729_奈良こんふぇいと05
 奈良の老舗のお砂糖屋さんみたいです。
 食べてないので味はわかりませんけど、この箱のデザインが大変気に入りました。
 他にも、鹿とか、大仏とか、二月堂とかいろんなデザインがあったのですが、あげる人の顔を思い浮かべながら、悩みに悩んでこの3種類だけ買ってきました。
 阿修羅は、ちょっと前に家族のことでちょっと相談に乗っていただいた人にあげるため。この人、机の上に阿修羅像のフィギュア?を飾っているので、これがいいかなと思いました。
20190729_奈良こんふぇいと02
 赤い箱は、一緒に陶芸に行っている女性にあげました。
20190729_奈良こんふぇいと04
 きれいな箱にはあまり興味のない人だと思っていましたが、箱の美しさに大変感動して、早速、「何に使おうかな」と言っていたので良かったです。
 何の絵かわかりませんでしたが、多分、正倉院の宝物に違いないと思って調べたら、どうも「紅牙撥鏤撥(こうげばちるのばち)」のデザインのようです。
 最初、麒麟かと思ったんですけど、ちょっと違うのよね。角と羽のある馬のような生き物なので、ユニコーンかとも思いましたが、ユニコーンは四肢なのに、このデザインは二肢なんです。でも、馬の前肢が羽になったと思うと、ユニコーンよりも造形としてはあり得る進化の形のような気がします(ユニコーンは要するに6本足ってことなので、ほ乳類にはあり得ない形)。
 紺の箱は、ひとまず自分用。
20190729_奈良こんふぇいと03
 これも正倉院の宝物のデザインかなと思ったのですが、鳳凰と唐草の組み合わせはあまりに一般的過ぎて、元ネタはわかりませんでした。

【過去に紹介した奈良土産】
奈良県のいちご (2013/02/02)
天理スタミナラーメンのカップ麺 (2013/02/21)
まほろば大仏プリン (2013/02/22)
奈良で買ったお土産 (2013/02/23)
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斑鳩のお土産 いかるが三昧 (2017/08/02)
奈良土産 鈴らむね (2017/08/28)

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第69回法隆寺夏季大学 その12(第6講「『多様性と寛容』我が国の将来に仏教が果たす役割」その2)

 昨日の続き。一応本題。
 現在は、世の中で凶悪な事件が起こっているわけですけども、世の中には特別悪い奴がいるわけでもなく、人というのは皆、「良い」「悪い」を持っているもの。それを自ら制御して暮らしているのだけれども、制御できなくなったときに悪い面が噴き出すのだそうです。
 現代はストレス社会なので、ストレスによって制御できなくなるということのようです。
 森田管長は、昨日も書いたとおり企業へのお勤めの経験がおありなので(昭和40年代)、その当時に比べて経営者の質が変わっていることも問題視されていました。
 昔の経営者は自分で会社を所有していたので、「自分の会社」だという意識があり、従って、何十年か先のビジョンも持っていたけれども、今の経営者は「自分がいる間に高い業績を上げればよい」という考えなので、長期ビジョンがなく、短期の成功ばかりを追い求める傾向にあるというお話もされました。
 これは、企業に限らずどの組織も同じだなぁと思いました。長期ビジョンがないと、短期的な成功ばかりを追い求めて、人を育てるとか、未来のために投資するとかいうことをしなくなるので、現在の人材や過去の投資から出る収穫物を採り終えると枯渇するばかりです。わかりやすい例を挙げれば、植林をせず、山の木を伐り出して現金化する行為のようなものだと思います。伐り出す木材が多いほど業績が上がり高い評価を得るわけですが、長い目で見ると単に資産を食いつぶしているだけです。
 これの怖さがわからない人は、いくら成績を上げていても無能ですし、わかっていてあえてやらない人は狡猾な悪人だと思います。
 話を戻します。
 森田管長は、若い頃は仏教(宗教)に否定的だったそうです。だからこそ、企業に就職されたようですが、四天王寺で福祉の仕事をされるようになってから、仏教の良さがわかってこられたようです。
 仏教には多様性と寛容性がありますが、これが他の三大宗教とはっきり異なる点なのだそうです。仏教徒は軟体動物のようなもので、固い団結力を持つ他の宗教とは違うとのことでした。
 自己と異なる他人を認め合い、みんなで幸せになることを求めるのが仏教(大乗仏教)なのです。
 それが今では経済至上主義になってしまい、お金以上の価値がない、そのために社会がギスギスしていることを嘆いておられました。
 ただま、私、個人的には、そういう時代は今、ゆるやかに過ぎつつあるんじゃないかと感じております。
 むしろ、今、社会の大勢を占める高年齢層の価値観がそれで、嘆きつつもそれを志向しているという感じがします。その中で、若い世代はそういう価値観に、積極的にアンチテーゼを叫ばないけれども、異なる価値観を持って静かに存在しているという気がします。──そういう気がするだけですけど。
 ただまぁ、ギスギスしているというのには賛成します。
 それを変えるためには、まずは子供の教育だそうです。子供に大人が良い見本を見せることだそうです。
 例えば、お隣さんがだれかを知らなくてもいいけど、マンションの廊下等で会ったら挨拶をするとか、子供の前では他人の悪口を言わない、とか。
 上に書いたとおり、人は誰でも悪の心も持っているわけですけど、せめて子供の前では演技しましょう、と言われました。大人はそれくらいの器量を持たないといけないそうです。それはごもっともだなぁと思いました。
 最後に、森田管長の好きな言葉として、最澄の言葉を教えていただきました。「一隅を照らす人は国の宝なり」だそうです。
 サウイフモノニ ワタシハナリタイ。

 写真は、四天王寺の六時礼讃堂。
20151206_四天王寺01

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第69回法隆寺夏季大学 その11(第6講「『多様性と寛容』我が国の将来に仏教が果たす役割」その1)

 今日は、うまくいかなかったことの方が多いけど、ちょっといいこともあったのでOK。
 書きたくもないレポートを書かなくてはいけないので、いやいやながら今日から始めました。頭を使うときにはチョコが必須なので、コンビニでチョコを買ってきて始めました。
 と思ったら、今日でほぼ終了。ちょっと書きすぎたので、明日以降は所定の用紙内に収まるように見直し&言葉も必要に応じて選び直す予定。
 少し前のことを思い出しながら書いているのですが、嫌なことはすぐに忘れる私は(嫌だったという感情だけは忘れませんけど)、意外と覚えていませんでした。まぁでも、当時の記録は引継時につぶさに残しておいたので、何とかなりました。見直すとさ、やっぱり私、頑張ってたじゃん、と思いました。

 さて、第6講は四天王寺の森田俊朗管長のお話。
 四天王寺と言えば、聖徳太子ゆかりのお寺としては、法隆寺と双璧を成すお寺なので、四天王寺のことをいっぱい聞けるのかと思ってましたが、内容はそういうのじゃなかったです。いわゆるお坊さんの説法のようなものでした。
 講演の常で、森田管長も自己紹介から入られたのですが、「自分は77歳で老僧なのに、貫禄がない」などと卑下されるので、どういうことかなと思ってましたら、ちょっと経歴が変わっているのでした。
 生粋の宗教者ではなくて、実家がお寺だったこともあり若いうちに得度はされているのですが、僧侶のキャリアは短くて平成16年からだそうです。
 それ以前は、サラリーマンになって営業の仕事をしたり、労働運動にかかわったりされていたようです。お兄さんに乞われて四天王寺に入ってからも、ずっと福祉の仕事をされていたとのことでした。
 そんな話を先日、友人にしたら、「ああ、お寺は、よく保育園とか福祉事業とかしてますよね」と言ったので、このブログをお読みになっている人には余計な説明かもしれませんが、ここで補足しておきます。
 四天王寺の福祉事業は、他のお寺にはない特別な歴史があるんです。
 四天王寺を建立した聖徳太子が、ここに福祉や医療の機能を持つ施設を併せて作ったとされているんです。
 敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4 つの施設ですが、そのうち障がい者や貧しい老人などを救うための施設が悲田院。今で言う福祉施設です。日本最古の福祉施設です。
 多分、日本史的には、光明皇后が開設したのが最初と言われていると思います。光明皇后が、浴場を建設して、重病人等の体を自ら洗ってあげるという福祉行為をされていたそうですが、誰もが触るのを嫌がる重症のらい病患者の体も洗ってあげて、さらにはその膿を吸ってあげたというお話が伝わっています。余談ですが。
 ちなみに、悲田院以外の施設がどういうものかというと、現代で言う病院に当たるのが療病院、薬草を作ったりしていたのが施薬院、残った敬田院は経典などを学ぶ施設、即ち寺院のこと。
 聖徳太子が仏教の教えを具現化して四天王寺にこういう機能を持たせたということであり、まさに四天王寺創建の理念なのです。それを現代まで受け継いで、四天王寺では、教育から医療、福祉などの事業をかなり手広く行っておられます。
 ……ということを踏まえますと、「ああ、お寺は、よく保育園とか福祉事業とかしてますよね」とさらっと流すのはちょっと違うと思うわけです。
 というお寺の理念を具現化した福祉事業を行っておられたというお話を、具体的なエピソードなどを交えてもっと聞きたかったなぁということを思いました。だって、こんな機会、滅多にないよ。(/□\)
 というわけで、これから本題に入っていきますが、すでに結構書いたし、今日は眠いので、区切りの良いところでここまでにします。
 写真はもちろん四天王寺(の鳥居)。
20151205_四天王寺01
 何回も行ってるのに一回もブログに書いてませんでした。検索してみてびっくりした。おかげで写真を探すのに苦労しました。
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第69回法隆寺夏季大学 その10(第5講「金銅仏の系譜-中国と日本-」)

 自分ではどうしようもないところで思うようにいかないことが続いているので、ちょっと癪に障ります。
 落語の『天災』みたい。気に入らないからと言って、その相手を殴るのではなくて、天災だと思って諦めなさいというもの。
 もちろん、私は癇癪を起したところで何も変わらないということはわかっているので、誰かに諭されるまでもなく諦めているわけですけど、諦めることが続くと、惨めな気持ちになるんですよね。
 早い話が、マイナスのスパイラルに入っていってしまうわけです。(ノ_-;)
 今日はPCを立ち上げたらネットにつながらないしさ(回復したけど)。

 第5講は、奈良国立博物館の松本伸之館長。
 この方、初めて講演にお出でになったときには、大変緊張されているなぁと思いましたけども、今年は肩の力が抜けておられると思いました。
 多分、夏季大学の聴講者に対して緊張されているわけではなく、法隆寺の僧侶の皆さんや法隆寺という存在自体に緊張されていたんだろうと思います。特別な場所なんですね。
 さて、今回のお話は、2年前の「仏像のはじまり」に近い?かなというお話。
 まずは、基本的なところとして、タイトルにもなっている、金銅仏とは何ぞやということですが、ほとんどは銅に錫を混ぜた合金で成形し、その表面に金メッキや金箔を施した仏像のことだそうです。「あ、銅だけじゃないんだ」と初歩的なところでひっかかりました。(;^ω^)
 作り方の説明もありましたが、私は高岡で釈迦三尊像のクローンが作られた過程を見てきたので、「これは知ってる」と思いました。でも、これもいろんな作り方がありましたのよ。Σ(・ω・ノ)ノ!
 一番ポピュラーなのは粘土型(真土型)を使った鋳造だそうです。後に蝋型に移るそうですが、西洋にも古くからある技法で、日本では飛鳥時代(要するに仏像製造の初期)から使われていたそうです。
 他には、押出仏を作る鍛金という手法で作られた仏像の写真も見ましたけど、あんなのを作る人はどういう頭の構造をしてるんだろうと思いました。仮に技術があっても、私は思っている形にできないと思います。
 で、金メッキはというとか、最もポピュラーなのはアマルガム鍍金という方法だそうです。
 金と水銀を混ぜて溶かしたものを仏像の表面に塗り、それを熱して水銀のみを蒸発させるというもの。日本では古墳時代以降に使用された技法だそうです。
 子供の頃、これは学研の学習漫画で読んだことがあると思いました。奈良の大仏鋳造のシーンで出てきたと思います。蒸発する水銀を吸い込んで、たくさんの人が倒れたというのも何かで読んだ記憶があります。
 その金銅仏がいつごろから作られたか。
 残念ながら、中国では王朝が変わる度に、以前の王朝のものを壊しつくしてしまうので、残されている金銅仏から量るというのは難しいようです。現代に残っているのは、中国の辺境で出土するものばかりなんだそうです。
 ただ、文献には古い記載を見つけることができるようです。
 文献によると、189年『三国志』に造寺・造仏の記述があり、その中に「銅を以て人を為り、黄金を身に塗り、衣するに錦采を以てす」と書かれているそうです。
 続く記述には、どうやらたくさんの参詣者がある様子が書かれ、「浴仏ごとに、多く酒飯を設け」とあるそうです。
 「衣を着るとか浴仏って、なんだろう、それ」と思ったら、ちゃんと松本館長の解釈を教えていただけました。
 「浴仏」とは、現代で言う釈迦の誕生物に甘茶をかける儀式ではないかということでした。ということは、恐らくこれは釈迦の誕生仏であり、普段は衣を着せて、浴仏のときに脱がせるというもののようです。ほー。
 また、266年には、土中から金属の仏像(多分銅製)が出てきたそうです。台座の銘によれば266年に作られたと書かれていたそうです。しかもこれ、菩薩像も2体あったそうなので、どうやら、釈迦三尊像のようです。
 日本には、仏教公伝の際、百済の聖明王が「釈迦仏金堂像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る」という記載が、『日本書紀』にあるそうです。経典だけではなく、仏像と天蓋も一緒に贈ったようですね。
 この仏像を見て、当時の方々は「西蕃の献れる仏の相貌端厳し」と思ったようです。「端厳し」は「きらきらし」と読むそうです。金銅仏なので、文字どおりキラキラしていたんでしょうね。
 最近、日本の古代史の動画を見たり、ネットで調べたりしてるんですが、古代の書物は和語で読むと意味がよくわかるんですね。
 昔の書物は全部漢字で書かれていますが、これを音読みしちゃうと正しく内容を理解する妨げになることもあるわけですよ。当時の日本人の気持ちになるには、やっぱり、当時の言葉を使わないと。
 「端厳」だといかめしい感じがするけど、「きらきらし」だと、仏像を見て「うわ~、きれいだなぁ」と感嘆している姿が想像できますもの。多分、純粋に工芸としてのそのお姿の美しさにひかれたんだと思います。
 その後、日本でもいろいろあって、東大寺の大仏が造られます。
 こちらが東大寺と大仏様。
20160121_東大寺 20160121_東大寺の大仏
 造立開始は745年。原型を作り始め、その後、747年に鋳造開始、749年に終了。
 その後、鍍金して、台座を作り、光背を造り、完成は752年だそうです。文字どおりビッグプロジェクトですね。
 建立の詔によれば、「国銅を尽くして象を鎔し」とあるそうですが、恐らく、文字どおり国中の銅を集めたんだろうということでした。
 現に、大仏の制作後、日本では金銅仏の制作が減ったとのこと。多分、国内産の銅を尽くしたんだろうということでした。
 もちろん、技術の粋も極めたと思います。大きすぎて、通常の鋳造みたいに原型をすっぽり覆う型は作れないですけど、階層を分けて造ったんですね。金属部分の厚さは約5.5cmしかないそうです。すごい技術ですね。
 と、感心したところで、今日はおしまいです。
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