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だれのために生きるのか

 私はほぼ毎日佐藤修さんのサイトを訪ねるのですが、どういうわけか、「あ、これ、私が今日言ってたことだ!」というようなことが結構頻繁にあります。
 先日、そのブログで「あなたは誰のために生きていますか」を読んだ私は「ああああっ、コメントを書き込まねばっ」と思いました。だって、ちょうどその前日、「『何のために生きるのか』ではなく『誰のために生きるのか』がきっと正解」という趣旨の文章をとあるところに書いたところだったからです。
 でもその日はコメントできず※1、翌日、佐藤さんは今度は「『社会のため』という大義の意味不明さ」をUPされました。いよいよこれはコメントをUPしなければと思ったのですが、どう考えても書きすぎてしまったのでこちらにUPすることにしました。
 以下の文章は、CWS privateをお読みになった後でお読みくださるとよろしいかと思います。ま、先に読んでもイイですけど。

 「だれのために生きているのか」という問いに対して、佐藤さんが「女房のために」とおっしゃることに、私は大きく納得したのです。
 その記事を読まれた奥様が「家族のためにではないのか」と問うお気持ちもわからなくはないですが、私は「まず女房」と言う佐藤さんのお気持ちの方に大きく共感しました。
 私には連れ合いはいませんが、私の両親の姿を見ていた限りでは、父が亡くなる瞬間まで、夫婦はまず互いのために生きていたように思うからです。
 無論、互いの姿のすぐ後ろに、子供や孫の姿も見えていたのは間違いがないのですが、娘の目からすると、少なくとも私は、父から見て母の前にはいなかったと思います。
 けれど、それを寂しいとは思いませんが。

 父は私の前では常に父であり、私には弱音は吐きませんでした。家庭のことで事務的な相談をよこすことはあっても、病気への不安などを私に見せることはありませんでした。
 でも、母の前では父はかなりわがままを言い、弱い顔もしていたようです。父の感情は、母の行動に映し出されていました。それを見て、私は何となく自分の位置を理解しました。
 でも、父が母のことを第一に考えたのは、それは当たり前のことなのです。
 娘や息子の行く末にまで、父が心配をする必要はないのです。私達は、自分で生活を切り開いていくことができるのですから。例え路頭に迷おうと、それは自分の選択です。親が自分の責任として気にかけることではありません。要するに、親の人生と子供の人生は別のものなのです。でも、どうやら夫婦というのはそうではないようです。
 父が母のことをずっと第一に考えていたのは、やはり、一生を共に生きるつもりでいたからなのではないかと思います。母の人生にも責任を負っていたのではないか、と。
 責任という言葉が適当かどうかよくわかりませんが、自分の人生も母の人生も父から見たら、いずれも自分の人生だったのではないかと思ったのです。だから、母のために生きるということは、実は父が自分のために生きることでもあったのだと思います。
 そんなことを、佐藤さんのブログを読んで考えていました。

 あとは、昔読んだ小説※2の登場人物を思い出していました。
 若い頃は結構わがままで勝ち気な娘が激しい恋をして、でもその恋人は死んでしまいます。さめざめと泣き暮らした後、さえない男の求婚を受けて結婚し、人が変わったようになってしまった女性です。自分の喜びは何も求めず家族のためだけに生き、近所の病人を訪ね、献身的に看護する女性です。
 昔、そのくだりを読んだときにはどうもピンと来なかったのですが(やんちゃ娘が聖母に変わる、という風に理解したため)、今思うに、「この人のために生きたい」と思う相手を亡くしてから、彼女の人生は終わったのだと思います。望むものが何もないから、何も求めず他人に尽くすだけの人生を選択したのですね。だから、感染症の病人も平気で訪ねることができるのです。自分が感染して家族を残して死んでいくことになるかもしれない、ということに、不安を覚えないから。
 「誰もが等しく大切」ということは、結局「誰も大切ではない」ということなのではないでしょうか。だから、彼女は近所の病人から病気を移されて、家族を残してあっさり死んでしまったのです。死ぬ間際にかつての恋人を思い出しながら。
 彼女にとっては、家族ばかりか自分の命さえ、決して大切なものではなかったのだと思います。
 「誰かのために」という気持ちは、利己的なものなのです、実は。でも、それが自分の大切なものを守ることでもあるのです。
 それで良いのではないかと思います。(もちろん、それが極端に走ってしまって、排他的になってしまってはいけませんが。)
 そんなことも考えました。

 ちなみに、私は今、母のために生きています。
 父の生前は、「父のために生きる」とか「母のために生きる」という自覚はありませんでした。恐らく、互いに支え合っていたから、私はそこに身を置く必要がなかったのだと思います。
 実を言えば、少し前まで私は死ぬことをそんなに怖いと思っていませんでしたが、今は、少なくても母がいるうちは私は死ねない、という気持ちに変わりました。
 それで良いのではないかと思っています。

※1:今週は仕事も私事も忙しいです…。時間的にも精神的にも。
※2:実は『風とともに去りぬ』のエレン(ピンとくる人いるのかな)。スカーレットの母親です。

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コメント

しみじみ読んでしまいました

私のブログに言及してくださって、ありがとうございます。
お互いに同じようなことを書くのは、きっとどこかで共通の問題にぶつかっているのでしょうね。

『風とともに去りぬ』のエレンの話は、全く忘れていました。
その気持ちがとてもよくわかるような気もします。
最近は「エレン族」?が増えているのかもしれませんね。

それに比べて私たちは恵まれているのかもしれません。
感謝しなければいけませんね。

佐藤さま
ありがとうございます。

そうですね、同じようなことを思い、書くのは、確かにどこかで同じような問題を自分の問題としているのでしょうね。

自分の大切なものは何か。
──それを、認識している分だけ、確かに私達は恵まれているのかもしれません。だから、生きていくことができるのですから。
ただ、先日、友人と話していたのですが、自分のためだけに悩んでいた頃は幸せだったなぁ、とも思いました。
どちらが良いとは言い切れないようにも思います。

  • 2007/03/12(月) 22:18:31 |
  • URL |
  • 小川美鈴 #-
  • [ 編集 ]

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